「 何があっても守れ、日本の立場 」
『週刊新潮』 '06年3月30日号
日本ルネッサンス 第208回
人間は真実を言われると、怒りがちである。国家も同様だ。
ロシアは中国を恐れている、中国に屈すること、中国の弟の如しなどというと、ロシア人は必死に反論する。しかし、彼らの否定は現実の前には虚しく説得力を失うのだ。
今月中旬にモスクワで開かれた「新しい日露関係第二回専門家対話」に出席して最も強く実感したのは、実はこのことだった。石油価格の高騰でかつてない好景気を享受し、自信満々のロシアが、中国に最新鋭の戦闘機や潜水艦その他の装備を売却し巨額の利益を得ながら、中国の軍事力、人口圧力、経済力を恐れている姿は、実に興味深かった。
中露関係の現在の特徴は、2004年に決着した両国の国境争いからも見えてくる。両国は1858年の愛琿(あいぐん)条約、1860年の北京条約によってアムール河とウスリー河を国境と定めた。ロシア帝国と清朝が結んだ二条約は、中国にとっては屈辱だった。第二次世界大戦末に、日本から北方領土を無法かつ軍事的に奪ったように、ロシアは西欧列強の前になす術もなかった清朝に迫り、清朝不利の国境線をのませたのだ。
岩下明裕氏の『北方領土問題 4でも0でも、2でもなく』(中公新書)には、中ソ両国が国境地帯で繰り返してきた紛争、虐殺、交渉、挫折が詳述されている。興味深いことに、日本の満州進出で国境線は満州に有利にソ連側に押し戻されたが、日本の敗戦でソ連は満州に攻め込み、両河国境に浮かぶ2,500もの島々の多くをソ連領とした。だが89年のベルリンの壁の崩壊、91年のソ連崩壊によって状況は一変。鄧小平は社会主義の総本山、ソ連の崩壊という混乱のなかで生き延びる方法はただひとつ、経済力の強化だとして改革開放路線の一層の推進を指示した。世にいう南巡講和である。この指示は4,000キロ余の国境を接するロシア極東への中国の接近を促進した。
ロシア知識人の深刻な声
92年以降、ロシア極東と中国との、人とモノの流れは倍増、特に中国側から多くの人口が流入した。ちなみに、極東ロシアの人口は当時800万人だが、ソ連解体後、移住の自由が許されたために、この10年で100万人も減少した。他方、一億を超える中国東北部の人口は河を越えてロシア側に移り始めた。ロシア極東での中国人の増加は現在も顕著で、一世代後には“人口力”によってロシア極東は事実上中国領土になると、ロシア知識人らは心配し深刻な声音でこう語るのだ。
「われわれは中国人よりも日本人に来てほしい」
極東ロシア人の中国脅威論は、大挙して押し寄せる中国人を見ているだけに切迫感がある。住民の反中国感情は高まり、中国に領土を譲る形での国境画定には強硬な反対論がおこった。ロシア外務省はこうした中で中国との国境画定交渉を続けた。
04年10月14日、プーチン大統領と胡錦濤国家主席が突然、中露国境問題は完全に解決したと発表し、世界を驚かせた。解決法は「フィフティ・フィフティ」と呼ばれ、係争領土の面積を半々に、領土面積のみならずその他の利益も双方同等に考慮したといわれている。
だが、両国政府は合意内容の詳細の発表を当初控えた。中国側は特に厳しく報道を規制したが、それは「譲りすぎ」「敗北外交」との批判、それが政府批判へと傾くことを恐れたからだと見られている。
中国政府が恐れる国民の反発は、ロシア政府にとっても同様だ。昨年11月に来日したプーチン大統領は北方領土問題は解決済みという冷淡な姿勢を維持した。北方領土は国際法によってもロシア領であると確認されていると、事実無根の挑発的な発言もあった。この強硬発言の意味をロシア側はこう解説する。
「中国との国境線画定でプーチン大統領は中国に譲り、今また日本に譲るのかと疑われるのを避けるためにも、強硬発言が必要だった。だがそれは空論ではなく、ロシアの本音そのものだ。日本に北方領土を返す確率はゼロ、全くのゼロだ」
可能性ゼロという点はひとまず措いて、なぜ、中露国境問題の解決は可能だったのか。要因のひとつは、過去半世紀以上、中国側が文字どおりひとときも領土問題を忘れずに両国国境の河に浮かぶ2,500余の島々の実効支配に腐心してきたことである。中国の手法は南シナ海の西沙諸島や南沙諸島ですでに明らかだ。口実を作り、多くの島々に軍事拠点を築きあげ、実績を作ったうえで話し合いを持ちかけるが、話し合いは中国の軍事的支配という既成事実に影響される。こうして南シナ海は事実上、中国の海となった。無論、南シナ海と中露国境を同列に論ずることは出来ないが、中国のあくなき領土拡張の執念が中国有利の情況を作った要因のひとつであろう。
日本はどう筋を通すか
もうひとつの要因は前述の、中国に対するロシアの恐れである。
中国問題専門家の平松茂雄氏は、中国の国家目標は清朝の支配した領土の復活だと指摘する。そのような中国に対して、中国が強大になりすぎる前に手を結ぶのが得だとロシアが判断したとの見方も成り立つのだ。
無論、中国との“良好”な関係は、両国関係全般に評価すべき前向きの影響も生み出した。またロシアにとってそれは米国や日本に対する切り札にもなり得る。「北方領土返還の可能性はゼロ」と繰り返したロシアの有力者はこうも述べた。
「ロシア経済はかつてなくすばらしい。中国とは経済、軍事、全ての面で交流が活発だ。日本の投資と経営力は必要だが、すでにトヨタはきている。全てが順調ないま、なぜ、領土を返すのか。領土返還なしには平和条約はないと日本政府が言うならそれでよい」
日本の代表的企業といえども、領土という政治問題を飛び越えて投資に踏み切れば、その企業は日本籍というより、実態として無国籍企業の性格を帯びる。そうした企業の存在はロシアの立場を強め、島を返してまで日露関係を改善しなくてもよいと思わせるだけの余裕を彼らに与える。
こんなときこそ、日本政府は冷静に日米中露の関係を分析するのがよい。明確に見えてくる第一点は、ロシアとの国境問題を片づけ背後を固めた中国は、東シナ海で日本に譲る気はないということだ。だから中国に譲歩を期待するのは愚かなことなのだ。また、ロシアが日本の資本と技術さえ来れば日本政府は関係ないと構える限り、日本政府が接近する必要もないのが第二点だ。
内心で中国を恐れるロシア、中露共に最重要の国は米国、ロシアが最も好むのは日本人、ロシアが最も切望するのは日本の援助、そして日米は同盟国。こうしたことを忘れずに、日本の実力を信頼して、その力に見合った筋の通し方を、今は心がけることだ。
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